ざっくり経歴
名前:佐久間亮介(さくまりょうすけ)
生年月日:1990年3月7日
出身地:東京都練馬区
出身大学:駒澤大学法学部法律学科
趣味:読書
海外渡航先:ベトナム(ハノイ、サパ)カンボジア(シュムリアップ) 2010年11月
マレーシア(クアラルンプール、タマンヌガラ)、タイ(バンコク、チェンマイ)、ラオス(ヴィエンチャン、ルアンパパーン)、ベトナム(サパ) 2012年1月(初めての一人旅)
フィリピン、グアム、アメリカ(ロス、ラスベガス) 2012年2月〜3月 卒業旅行
フィリピン語学留学 2016年9月〜10月
ニュージーランド 2016年11月〜2017年3月まで。語学留学1ヶ月+キャンプ場に泊まりながらニュージーランドを旅しました。
職業:キャンプコーディネーター
前職:生活用品メーカーの営業マン(2012年4月〜2013年12月退職)
細かい経歴(生まれ〜高校まで)
1990年3月7日生まれです。東京都練馬区西大泉で生まれ育ちました。
大泉西小学校→大泉西中学校
小学生の時は野球に熱中。練馬区最優秀選手賞を受賞したことも。
将来の夢は野球選手でしたが、小学6年生の時に経済の悪化とともに両親の収入が激減。このまま野球を続けるのは金銭的に難しいと判断して、プロ野球選手になることは諦めました。
中学生の時はバスケ部に。公式戦に出れないという謎の部活動でしたが、その他にも生徒会の副会長や応援団長などを歴任。結構活発な人間でした。学業は普通。漫画とか読みまくって遊んでた日々でした。
高校は私立保善高等学校に入学。中2の時に両親が離婚していたので、学費を練馬区からお借りしての進学でした。
保善はスポーツが盛んな高校で、バスケ部は入部当初100名以上在籍。スポーツ推薦で入部する人も多数いる中で、一般生からなんとか這い上がり2年の夏にAチームに。初めてもらった背番号は17番でした。
どうしてもAチームにあがりたかったので1年の夏から1日も休まずに朝練を繰り返してきた成果でした。この時に「諦めないこと、続けること」の大切さを身にしみて感じました。
初めてもらったユニフォームを母親に見せたら号泣してくれました。とても印象に残ってます。
成績は普通科の中で学年2位。特待生になって学費を免除していただきました。
当時の英語の先生から「読書の楽しみ」を教えて頂き、部活動を引退後は読書にハマる。その先生は今となっては私の恩師、そして一緒に仕事をする方に。素敵な縁を頂くことができました。
駒澤大学法学部入学〜就職活動
高校時代の内申点が高かったので、指定校推薦で駒澤大学の法学部に入学。理由は「社会で生きていくために法律は欠かせないと思った」からでした。
ゼミは会社法を専攻していて、それが独立して起業を考える今となっては地味に役にたっていて面白いなーと思います。
学生時代は3年生まではとにかく普通の学生。野球サークル作ったり、バスケサークルでひたすらバスケに明け暮れたり。
転機となったのは3年生の秋から始まった就職活動です。
何気なく「海外に関わる仕事がしてみたい」と考えて就活スタート。っが、実際に海外に行ったことがないという自分に矛盾を感じて、すぐにパスポートを申請。
ベトナム&カンボジアへと1週間の旅へ。一緒に行ったのは1つ上の先輩。これが人生の転機でした。
「日本ってすごくいい国。裸足で生活するカンボジアの子供たちをみて、自分はこんなに恵まれているのだから、もっともっと一生懸命生きなければ」っと思いました。
当時の話は「二十代が海外に行くべき理由。」で触れているので興味があれば、一読ください。
その後、無事アイリスオーヤマ株式会社に内定を頂き、就職活動は終了。
ちなみに、同時並行で教職過程も受講し、無事に教員免許を卒業と同時に取得。高校で政治経済を教えることができます。
母校で教育実習をさせて頂いた時に「先生(僕)に言われた言葉で一生懸命勉強するようになりました」っと言われたことがキッカケで、
自分を介して誰かの人生が少しでも幸せになってくれることに喜びを感じるようになりました。これは今でも変わりません。自分だけが幸せになるのではなくて、みんなで幸せになりたいです。
なので、地味に心の中では今でも学校の先生という職業に興味があり、もし今のフリーの生活が30歳までにうまくいかなければキッパリと辞めて、高校教師を目指そうと考えてます。
東日本大震災
東日本大震災が起きた時、僕は大学3年生でした。ちょうど就活をほぼ終えて4年生になるちょっと手前でした。
震災後、1ヶ月が経った頃にガソリン供給が安定したという知らせを聞いて友人とボランティアに参加。最初に行ったのは宮城県の亘理町でした。
想像を絶する光景にただただ唖然としたのを覚えてます。
その後も毎月のように宮城県に行き、気仙沼は通算で6〜7回は行きました。
当時、偽善だなんだと言われたこともありましたが、僕の手を握って
「わざわざ東京から来てくれてありがとうね。その気持ちでとても元気になる。がんばるね」っと涙ながらに語ってくださった被災者の姿を見た時に
偽善と言われても、こうしてたいして技能のない大学生の自分でも少しとはいえ役に立てるということを知り、それ以来はひたすらに自分にできることを精一杯やることを心がけるようになりました。
この頃の経験もあってか、他人からの批判耐性は人よりも強いのかもしれません。
やってみなければわからないことがたくさんあるし、外野でガヤガヤと口だけ出すのは簡単なことなんです。
このボランティアの時に、初めてテントで寝るという経験をしました。
当時不謹慎ながらテントで眠ることがすごく心地よかったのを覚えてます。このあたりはFumeee!!というメディアでもお話させて頂いているので、興味のあるからはどうぞ。
参考:自然は自分らしくいられる場所」キャンプブロガー・さくぽんさんが伝えたい外遊びの大切さ【前編】・【後編】
アイリスオーヤマに就職。営業を1年10ヶ月。
宮城県に本社を置くアイリスオーヤマに入社。
実家から通える場所には配属しないと言われていたにも関わらず、なぜか東京営業所に配属され僕の社会人生活は始まりました。要町で一人暮らし。
主にドラッグストアやスーパー向けに自社製品の導入を提案する営業を担当。
会社の仕組み上、メーカーであり、問屋でもあったので様々なことを経験することができました。
一番印象に残っていることは今までなかなか口説けなかった大手スーパーの商品部長を口説いて宮城県の本社まで一緒に出張したこと。
おかげさまで同期や東京営業所内では、地味に将来を期待して頂いてました。
っが、その結果がアダとなったのか、2年目にさらに大手得意先を担当。年間計画は5億円に。
それだけならばまだしも、当時急な円安が進行し、中国からの輸入品の多かったため、引き継いですぐにプライベートブランド商品の値上げをしなければいけないという状況に。
23歳の若造が年商数千億企業の商品部課長相手に簡単に値上げをすることもできずにハンパないストレスをかかえることに。
終電で帰る日々が続いてついに全身に謎の蕁麻疹が。コンビニの弁当が口に入らなくなることもありました。
そんなこんなもあって退職を決意。100万円貯金を早々に達成して退職。
当時PB開発や立ち上げ、中国からのコンテナ配送、国内の物流最適化など、なかなか経験できないようなことをさせて頂いたので、会社にはとても感謝してます。
当時、自分の時間も一切なくなって、5年付き合ってた彼女とも別れました。この時以降、自分の大切な人と、ちゃんと一緒に過ごすことができるように
自分で仕事を作って、自分で時間をコントロールできるようになろうと考え始めました。
結婚生活も楽しく過ごしたいし、子育てもしたいし、家族みんなでちゃんとご飯を食べたいです。
ヤマケンと出逢ったのは、会社員のとき
ヤマケンとは前職で出会いました。つまり同期なのです。
そして何かの縁があったのか、ヤマケンも僕と同じくドラッグストアやスーパー向けの営業部に配属。彼が東京第一営業所で、僕が東京第二営業所でした。
仕事内容が近いこともあったりしたので、当時から仲が良くて飲みにいっていました。
そこで、どっちから言い出したかわかりませんが、なぜか「キャンプにいこうぜ!」という話になり、そこからキャンプにドハマリしました。
当時、キャンプ道具のことなんか全然わからなくて
「キャンプ道具といえばコールマンだろ!」
っと思い、静岡県御殿場のアウトレットで一気に買え揃えてそのまま山梨県の鹿留キャンプ場に行ったのがヤマケンとの初キャンプでした。
右も左もわからない中でしたキャンプだったのですが、とにかくめちゃくちゃ楽しかったのだけは覚えてます。
大した道具も持ってなかったし、3月か4月だったので超寒かったのも覚えてます。
でも、本当に楽しかったのです。
ただ、当時はキャンプのことを調べてもネット上には初心者向けの情報が一切なく、これではこれだけ楽しいキャンプが皆に伝わるはずがないなーっと思ってました。
それがキッカケでブログ「https://camp-in-japan.com/」を作りました。
好きなことを仕事に
いよいよ会社員を辞めることになりました。2014年の1月のことです。
思い返せば、なんだかすべてのことがつながっているように思いました。
初めて海外に行って感じたこと、ボランティアで経験したこと、ストレスで蕁麻疹が出たこと
色々なことが重なって
「一度きりの人生なのだから、好きなことを仕事にして、思いっきり生きていきたい」
っと思うようになったのです。
今(2017年現在)でこそ「好きなことを仕事に」っという考えは、ネットを中心に広がりましたが、当時は全くそんなこともなく
「何を言ってるんだ、この若造が」ぐらいにしか思われてなかったと思います。
実際にたくさんの人に「甘いな」とか「無理だよ」って言われました。
けど、辞めた当初は、それはそれは目を輝かせて、自分の将来に希望を持って生きていたのを覚えてます。
その当時に書いたブログ
は本当に赤裸々に書いているので、今読み返すと普通に恥ずかしかったりもするのですが、あえてそのまま残してます。
今こうしてフリーで生きている僕が当時何を考えていたのかは、自分が読み返しても思うところがありますし、僕みたいに生きたいと思う誰かの参考になるかもしれないからです。
キャンプをよりたくさんの人に
僕が仕事にしたいと思った「キャンプ」
それはなぜかというと「キャンプはたくさんの人を幸せにする」と本気で思ったからです。
全身に蕁麻疹が出て、うつ病だと診断されてもおかしくなかった僕を救ってくれたのはキャンプでした。
- 毎日のようになりっぱなしの携帯電話をおいて、ただただ自然の中ゆっくりと過ごす。
- 友達と昼間からお酒を飲んで楽しい時間を過ごす。
- コットを設営してグダグダと昼寝をする。
ただこれだけのコトで僕の幸福感は高まりました。
自分が仕事で悩んでることが自然の中にいるととても小さく思えたのです。
「あー自然ってすげーな。あぁ・・・気持ちいい」って。
そして、そこでさらに感じたことが1つ。
「僕と同じように普段の仕事のストレスを発散する場所がない人がたくさんいるんじゃないのかな」
そう思ってから、キャンプを自分の周りや若い人にもっと知ってほしいと思うようになったのです。
2013年当時、キャンプはファミリーか、玄人の変わり者のオジサンたちがするものというイメージだったのです。
挫折を味わった1年目の旅
好きなことを仕事にしたいと思った僕は、キャンプしながら日本一周することを選択しました。
「好きなキャンプを仕事にしたいけど、正直いって全然経験もないし、日本全国のキャンプ場とかも全然知らない。
なら、実際にキャンプ場を巡って日本一周しよう!」
そう思ったのです。そこから全てが始まりました。
メーカーさんや雑誌などに営業に行ったりもしました。色んな人と知り合いになることができて、面白おかしく僕達のことを可愛がってくださる方もいましたし
特に接することの多かったキャンプ場のオーナーの皆さんには、時に優しく、時に厳しく指導していただきました。
関東→東北→北海道っとキャンプ場で働きながら進んでいった僕ら。決して順風満帆に進んでたわけではありませんでした。
ヤマケンとケンカしたこともありましたし、色んな人に怒られたこともありました。
ヤマケンは早々に資金がつきて北海道のトウモロコシ工場で働いたりもしました。
僕の師匠、稲垣さんにお会いしたのもこの年の北海道でした。
っが、現実は甘くなかったです。好きなことを仕事にしようと色んなことに挑戦してみるも一向に収入は増えていきませんでした。
日々減っていくお金、食べるものも我慢する日々。そして、ついに資金が底をつき、体調を崩し、旅を中断することに。
人生のどん底
中断期間は人生のどん底でした。
半月以上、毎晩汗が止まらず、シャツを何枚も変える夜を過ごしました。一向に体調がよくなりません。
「あいつ好きなことやるっていって仕事辞めて旅したくせに、帰ってきたらしいぜ」
って後ろ指さされるのが怖くて、誰にも会えない日々を過ごしました。
本当にお金が無くなって、学生時代に貯めていたマイルをTポイントに交換して、なんとか食いつないでいました。
ただただ苦しかったのを覚えてます。
日銭稼ぎでアルバイトをしている時に「俺、何やってんだろ」って思ったこと、何度もありました。
「なんで会社員やめたんだ。安定した給料、人生、なんで捨てたんだ」
こう思う度に自分を奮いたたせようとしてましたが、それが仇になって心が苦しくなったこともあります。
でも、当時もブログの更新は辞めなかったんです。
どうしてもブログだけは更新したくて、図書館に行ってキャンプ関連の本を持ってきてネタになりそうなことを探して
それをひたすら自分の言葉でわかりやすく書いて。
絶対に諦めたくなかった。
だから、アルバイトも頑張りました。もう一度旅をして日本一周の旅を完結させるために、引越のバイトとコンクリートの壁を調査する仕事をしてとにかくお金を貯めました。
再出発。少しづつ成果が出始めた2年目
資金を貯めて再出発。写真と文章で攻めていく覚悟を決めた僕は稼いだお金で25万のカメラと10万ちょっとキャンプ道具を買い足して2年目が始まりました。
っが、まさかのヤマケンが追突事故にあって、思うように進まない日々。
車を買い直したものの、新しく買った車がわずか数週間で不具合を起こしたりっと、そこそこしんどかったのを覚えてます。
某キュレーションメディアにパクリ疑惑を訴えて色んな人に怒られたこともありました。結果的にはアレも大きな分岐点になりました。
「ちゃんと自分たちで道具を買って、自分たちの身銭を切ってやりなさい」
そう教えてくださったのは師匠の稲垣さん。
その教えのもと、自分たちのお金をかけてキャンプ道具を購入→レビューを続けることでブログのアクセスも堅調に推移。
おかげさまで単月で20万円のブログ収入を得ることができるように。
この頃から自分たちの道筋が徐々に見え始めてきて、旅をしながらキャンプ場でバイトやイベントの手伝いをしながら生活する日々が定着してきました。
稲垣さんはじめ、自分たちがやっていることをしっかりと見てくれたキャンプ場のオーナーの皆さん、
そして、ブログを読んでくださっていた読者の方々に支えられてました。本当にありがたいです。
ついに日本一周達成
2年目の11月にいよいよ沖縄県に到着。バックパックを背負って本島+石垣島、西表島を旅して、無事に日本一周を達成しました。
その頃ヤマケンが骨折したこともあって、1人での達成になりました。
実質1年半かけて回った日本は、想像している以上に魅力的なところがたくさんあって、正直言って1年半回った程度では、「日本に何があるのかを知れた程度」でしかないです。
それでも、自分の足で行って、自分の目で見て、自分の肌で感じた景色、風景、文化が僕の人生の財産になったことは間違いないです。
1年目の挫折もあったけれど、諦めずにやりきることができました。
3年目ブログは堅調に推移、仕事もちょこちょこと頂けることに。
そして迎えた3年目。外部メディアでのライターのお仕事を頂いたり、キャンプシーンのコーディネートに、イベント設営応援など、キャンプにまつわる仕事をさせて頂きました。
ブログもキャンプブームの勢いを追い風に順調に推移。キュレーションメディアが勃興してましたが、アクセスは堅調に伸び、さらに有料コンテンツの販売も行った結果100名以上の方に購読頂きました。
この頃からいよいよ日本一周終了後の目標、海外進出に目を向け始めました。
まずは長年苦しんできた英語を克服すべくフィリピン語学留学を目指して資金つくりを。
色んな方に仕事を頂いたおかげでなんとか海外へと旅立つことができました。
そしてニュージーランドへ
2016年11月。ニュージーランドに旅立ちました。
なぜニュージーランドを選んだのか。それはアウトドア好きの諸先輩方がこぞって「ニュージーランドは最高だ」と言っていたから。
そんなにいい国なんだったらぜひとも自分の目で見てみたい。英語圏だし、ちょうどいいな!ってことでワーホリビザ、片道の航空券を持って旅立ちました。
ニュージーランドは想像以上の国でした。
自然で遊びことが当たり前の国。
波が良ければサーフィンに、潮が良ければ釣りに、天気が良ければ山登りに、
っととにかくアウトドアを楽しむ国民性でした。
特に南島は絶景の連続でいつまででも山に登っていたかったし、いつまででも湖を眺めていたかったです。
そして、日本とは正反対と言ってもいい国民性。
夕方になればほとんどのお店が閉まって家族との時間を大切にする。
周りの目を気にして生きている人もほとんどいない。自分の人生を楽しむために生きているその姿にカルチャーショックを受けました。
結局、テレビ出演の依頼を受けることになり、わずか4ヶ月での帰国になりましたが、ニュージーランド旅もまた、自分の人生にとってかけがえのない財産になりました。
まさかのテレビ出演
そして2017年5月。日本テレビのヒルナンデス!にキャンプの達人役として出演することになりました。好きなコトを仕事にすると決めて会社員を辞めてから、3年4ヶ月のことでした。
普段からファンだったオードリーのお二人にキャンプをレクチャーするという役目で、撮影本番はめちゃくちゃ緊張したのを覚えてます。
ぶっちゃけやってはいけない失敗もしてしまったのですが、結果無事に放映されて良かったです。
この仕事を機にまた1つ「失敗してもいいから、挑戦していくことの大切さ」を改めて知ることができました。
例え背伸びして頑張ったところで自分の力量以上のものは出なくて、精一杯自分が持てるものを出し切る。それでも失敗してしまうこともあるけれども、それは自分の今の力量だから仕方ない
そう割り切れるようになりました。プロとして呼ばれる以上はちゃんとやりきらないといけないんですけどね!その辺はまだまだ成長が必要な僕です。
そして、今は・・・
そして、今はというと、海外に目を向けて仕事を作ろうとしてます。
僕が日本を巡った理由は先程も言ったとおり、好きなキャンプを仕事にするための修行でありつつ
実は自分が生まれた国をしっかりと自分の目で見てみたいから、という理由でもありました。
日本一周後、フィリピンに行って、ニュージーランドに行って、最近は台湾にも行きました。
そして、これからカンボジアとタイにも行きます。
ここまで積み上げてきた「キャンプ」と「日本旅」に「英語」を交えていきます。
僕は自分が生まれた国「日本」が好きです。だけど、大いに失望しているところもあります。
外に出てみると日本の社会が、いかに合理的でなく、右へ倣えの同調圧力があり、不必要な規制がもたらす負の側面ばかりが目につきます。はっきりいって沈みゆく大型の船に見えます。
でも、僕は自分の国の文化や歴史、自然、食が大好きです。これを失いたくはない。
だから、自分にできることをしていこうと思うのです。これは少し時間がかかることですが、30歳までに何かしらの結果が見えてくるように頑張ります。
フリーになって4年目
長々と書いてきましたが、この章で終わりにします。今年でフリーになって4年目になりました。
ここまで来るのに、苦しいこともたくさんありましたし、今でもたまにどうしようもなく苦しくなる時があります。
フリーという生き方は苦しい時もあれば、楽しい時もあって、会社員の方に比べるとその波が激しいです。
ここまで歩んできた道が正しいものであったかどうかなんて、今の僕にはわかりません。それはきっと死ぬ時になってわかるんだと思います。
後ろを振り返ったって何も変わりません。
僕の大好きなMr.Childrenの桜井さんが、こう歌ってます。
過去は消えず、未来は読めず、不安がつきまとう。
だけど、明日を変えていくなら、今
今だけがここにある。
Mr.Children /ヒカリノアトリエ
自分が描いた未来を実現するために、今日も一歩一歩
自分にできることを増やしていく努力をコツコツと積み重ねていきます。